昭和48年11月21日 朝の御理解
御理解 第12節
「神に会おうと思えば、にわの口を外へ出て見よ。空が神、下が神。」
天地の親神様の姿をというなら、やはり、外へ出て見る、天地を仰がせて頂く。天の広さ、地の重さ、そういうものをひしひしと感じる。天地の御恩恵を感じる。今朝いつものように、天地を遙拝させて頂きました。今日はおしめりがあっておりますにもかかわらず、北斗七星からもう、煌くばかりにギラギラと、不思議な事じゃなあ、今日のごとおしめりの日に、星がいっぱい夜空に拝めると言う事は、何かこう宇宙の神秘性というか、本当に神秘なものを、ひしひしと感じました。
それが私共の心が、いつも天地を拝むというか、天地を拝むというその心で、その神秘なものを感じるのです。ですから私共が天地を拝まなかったら、そういう、ああ素晴らしい景色だなあとか、いろんなそういった、いろんな現象に触れましても、何か有難かという事は一様だけど、有難いというものを感じるから、それに報いる、それに応えるというところに信心の有難さがあるんだとこういったそうです。
うん成程そうだなと私もそう思いました。有難い、おかげ頂いて有難いと、おかげ頂くなら、誰だって有難い。けれども、有難いというだけに止まらずに、それがいわば、形の上に現れてくる。それがましても、天地の大恩がわかれば、ところがその天地の大恩ですから、いわば大恩に報い奉る生活と、本当の信心生活だ。それが本当に出来るようになったら、もう人間、不自由する事はない。いよいよ家繁昌、子孫繁昌の道が頂ける。おかげの道が絶対開ける。
只神に会おうと思えば、庭の口を外に出て見よ、空が神、下が神と。成程、金光様を拝ませしてもろうとる天地の親神様とは、この天地宇宙だと。例えばわかっただけではいけない。それを私共心から拝まして頂きよるとです。なら私が日々毎朝感じさせてもらう何というですかね、天地のヒレキとでも申しましょうかね、そういうものが、はぁっとこちらの五体に入り込んで来る感じがするです。私は本当もう合掌しておる。
このたかだか指の真ん中から、何か本当に時折にはそれを感ずる。けれどもジ-ンとするようなものを何か感じるのです。合掌というものは、そういう意味で有難いですよ。合掌すると言う事は、本当に天地が神様のいうなら、御神体として、皆様は拝むだけでなくて、それを感じれれるおかげを受けなければいけません。そこでなら天地の親神様の働きというものは、もういっぱいこの宇宙に満ちみちておるわけですよね。
それはもう理屈を言えば、大変な事になりましょうけれどもね、それを私共が、当たり前の事とせずに、それを有り難く受けると言う事なんです。又分らせて頂くと言う事なんです。そこで信心はね、その有り難いと言う事を、分らせてもらう。天地の親神様の働きを、真に感じさせて頂く道を、教えられるのだ、説くのだというてもよいです。そこでなら神様をです、実感として、感じれるおかげを頂くためにはです、どう言う事にならなければならないか。
昨日、或る方がお参りをして見えて、難儀な問題のお届けがあった。そしたら、釣鐘を頂いた。お寺さんの大きな、釣鐘。あの突くのはあれは、橦木と言いますかね、あの橦木かね、もう見た目に、ぼくぼくに腐っているという感じです。こうぶら下がっていますけど、虫がついてぼくぼくに腐っている。だからもうもじゃけたごとなってね、先がもういうなら、やわくなっいるわけですね、木が橦木が。ですからこれで突いたんでは、あのゴ-ンという余韻はいつまでも残すような良い音色は出はしません。
やはり、橦木そのものが、生き生きとしておらねばなりません。勿論橦木そのものに良い音の出るものがあるとは思われませんし、鐘自体にそれがあるとは思われません。結局、こう、ぱんと一緒になった時に音が出るというのですからね。それこそ都々逸の文句じゃないけれども、“鐘が鳴るのか、橦木が鳴るか、鐘と橦木の間が鳴る”と。鐘でもなからなければ橦木でもないのだと。鐘と橦木のその間中(あいなか)から、あの余韻【】々とした音色が響き渡るのです。
ですから、その方に私が申しました。その難儀な問題をおかげ頂く為にね、心が腐っておっては良い音色は出ませんよと。私が心が腐ると言う事は、もうあの男は、腸(はらわた)が腐っとるとこう言いますね。いうなら腸が悪い。根性が悪い。性格がよくない。それではいけないという意味もありましょう。けれどももう金が足りない事にです、難儀な問題を抱えておるとです、その難儀を余り目近にこうやって見るものですから、その難儀がどういう事すらがわからない。
いわゆる近視眼的な見方をする、難儀な問題を。すると何が何じゃわからんから、いわば目もどうかなるじゃろうか、心も腐ってしまう。心も憂鬱になる。ため息の出るようになる。ため息の出るようでは、信心してもおかげは頂かれません。いわゆる心配する心で信心せよとおっしゃるのはその事です。心配で心配でたまらんと言う様では、おかげになりません。あぁと言った様なね、そんな心ではおかげになりません。心がいつも生き生きと弾んでおる。
いつも心が【】と言う様なね、朝目が覚める、【】と布団から起きる。あの勢いの信心がなからなければ、そのおかげをキャッチする事が出来ません。天地にどういう例えばおかげが充満しておりましてもです、どんなに素晴らしい釣鐘がありましてもです、その釣鐘をたたく、その橦木そのものが腐った木でたたいたぶんでは、それこそ良い音色は出ませんと同じ事。そこで私共がです、難儀な問題がある。人からどうか言われると心が腐る。ぐらぐらする。自棄(やけ)起こそうごとる。
だからそういう心ではいけない。それは何故かというと余りにもその難儀を近視的な見方をするからなんです。それを遠く離して見る。その難儀と思うとるその問題を、よくそれをわからせて頂くと、それはおかげでより他にない。神愛より外のものではない。それを私共は難儀と言っておる。難儀というものをはずして見る。遠くから見る。今日ここに座らせて頂いたら、これは金光様がお書きになった、お詠なんですけれども、実はあの、本を読む時に栞にしてある。それにこんなお詠が載ってました。
“国遠く、群渡り来し連雀の、ひとむれきたる、わが家の庭に”とあります。歌集を、金光様の歌集を読ませて頂くと、このような小鳥が庭についてるんですね それがこういうところの、遠いところから来る鳥までも、いわゆる渡り鳥的なものまで、庭にやって来るんだそうです。 大した広いお庭でもないのですけれどもね、どういうわけで金光様の御庭に、そんなに珍しい鳥が、又はこういう、国遠く群渡って来るような、いわば渡り鳥のようなものが金光様の御庭につくのか。
それと他のお詠から頂きますと、鳥が来ると大変に可愛がられるのです。それが鳥が来る前には、必ずあの熟柿ですね、熟柿を一年中取っておられるそうてす。それをちゃっとお庭に置いてある。その熟柿に鳥が集まる。様々な鳥が来るそうです。庭も虫やら鳥がつくようになると、その庭はもう値打ちがある庭と言われておるくらいです。だからその値打ちのある庭にする為には、それだけの事をしなければ鳥は飛んで来ません。鳥が来たっちゃ、ほんな悪そうばっかりするならね、もう逃げて寄りつきはしません。
それどころか、例えばその鳥が一番好物とするところの熟柿をちゃっとこう置いてあるから、そこへ皆集まって来る。然も来たら大変に可愛がられる。だから毎年々やって来る。今日は神に会いたいと思えば、庭の口を出て見よ。空が神、下が神とおっしゃられる。成程、天地が神様ばいのというてわかっただけではいけない。けれども私が毎朝三時半に出て、この石庭を通して、天を拝し、地を拝んである。拝ませて頂いておるともう実に神秘的な言葉で表現出来ない。
今朝なんかこういう御湿りの中に、あるギラギラと煌いている北斗七星を拝ませて頂いて、何か神秘なものがこれに流れ込んで来る思いがする。それは私が拝んでいるからなんです。拝まずしておいて神秘を現す事は出来んです。同時にです例えばこのお詠じゃないですけれどもね、そういういろんな珍しい鳥でも、自分の庭で見たいと思うならば、それだけの事をしなければ雀はよっては来ません。鳥は寄っては来ません。
だから、どういう心の状態になり、どういう事をしたり、どういう事を言ったり、どういう行動したら神様を分り、実感として頂く事が出来るか。又おかげを頂く事が出来るかと言う事を今日は皆さんにわかって頂きたいと思う。只そのおかげをおかげはいっぱいこの宇宙に充満しておると言われます もう降る雨のように、問題はこの受けものを造れとこう言われております。だからその受けものを造らずしておかげを下さいというてもいけないでしょう。
もう頂けるはずはないでしょう。その釣鐘の良い音色を聞こうと思うならです、その釣鐘も立派でなければならん。もう、釣鐘そのものは絶対のもの。いうなら神様なんです。だから人間の気、人間の心、だから橦木そのものがです人間と思わにゃいけん。人間氏子、その人間氏子がです、形は同じであってもです、中がぼくぼくしとる、腐っとる橦木が打ったって良い音色が出はしませんね。
やはりそれが生き生きとした、シャンとした橦木であって良い音色が出るものなんです。だから心が腐っておる。だから心がいつもゆううつである。心配である。いや、あれを悩み、これを怨むと言った様な、有り難いという、いわゆる反対の心ばかり心に使っておるような事ではね、良い音色を聞く事は出来ません。そこに私共の心は何日もそこに在るのですから、私共はそういう心を自分の心の中に見極める事を、ああ私が悪かったと見極めることです。
人じゃない自分自身が、自分自身に本当の私をわからしてもらう。自分がこういう難儀な思いにならなければならないのは、難儀な元はこちらの方にある事がわかる時に、人ではないでしょう。そしてそこから御詫びをする心が生まれてくる。御礼をいう心、御詫びする心、これがいわゆるすみませんという心が生き生きとした心なんです。だからそういう生き生きとした心で、神様のいうなら、鐘をたたくのですから良い音色が出るはずです。ぼんやりした心じゃおかげは受けられません。
情けないと思うたり、羨ましいと思うたり、そういう心ではおかげになりません。心がいわゆる、有難いという心、生き生きとして弾んだ心、然も神様に向かうという心、本気で信心をわからせて頂こうとするその修行の心、心がいうなら、腐っておっても、その心を叩きますとそこからシャンとしてきます。枯れかかっている草花の根を叩いてやりますと、それから又改めて良い水を吸うて枯れかかっている花も又咲く道理です。だから修行が大事だと言う事が分りますね。
神に会おうと思えばにわの口を外へ出て見よ、空が神下が神。いわゆる金光教でいう神感なのです。金光教では神様を斯く見ておるという。それを例えば金光大神の御取次によって私共はわからせて頂く。だから天地が神様ならその神様を拝もうと言う事になり、天地の心を分ろうと言う事になり、だから難儀な問題の時悲しい問題の時にはね、天地の心を知りたいという一念を燃やすと、天地の心が分って来ると、今まで悲しいと思うておったり、苦しいと思うておった事が、もう有難いと言う事になるのです。
天地に心があるならば、その心を私にも知らせて下さい、分らせて下さい、私だけがどうしてこんな難儀な思いをせなければならないのでしょう。これが天地の親神様の心なら、その心のどういう心で、天地の親神様はどういう心をもって、私に難儀を下さるのですか。難儀な目にあわせて下さるのですかと言う事になる。そこに天地の心を知りたいという心がいる。それを天地の法則ともいうし道理ともいう。
又は天地の大恩と言う事が分る事によって、だから大恩が分り、天地の大恩がわからせてもらう事によって有難い、勿体ないという信心生活が出来る。そういう心をもって神様へ向こうのです。自分の庭に鳥がつく、鳥が下りるようなおかげを頂きたいと思うなら、鳥の好きなものを置かなければ鳥はやって来ない。絶対、種も仕掛けもないと言う事はありませんよ。信心さして頂いてもおかげを頂く為には、例えばおかげの頂けれる心の状態に私共はならなければいけない。
そしてわかる事、成程天地の大恩、同時に天地に守りぬかれておる、守り包まれておる私共を思う時に有難い。痛いけれどもこれは生きているしるしだと言う様な有難さがあるわけです。自分だけがどうしてこういう痛い思いをせなければならんだろうかと、お生かしのおかげを頂いておると言う事になる。今日はいわゆる、神感お道でいう神感をここに説いてあるのですけれども、神感ではなくて、それを本当に私共の実感として神様の働きを感じとらせて頂けれる為にはと言う様な話を聞いて頂いたわけですね。
どうぞ。